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 取りつかれている訳でも唆された訳でもない。
 国領は気付いてしまった。
 この少年は知ってしまったのだ。己と言う人間の本質に。気付く前の自分をタチバナヨシアキと呼んだのだろう。
 驚愕どころの騒ぎではない。国領は眼の前の少年の行く末に、恐ろしささえ感じていた。この歳でこの境地に達する人間というのは、一昔前ならともかく、現代には中々いない。
(ものすごい息子を持ったものだ)
 国領は、古くからの友人である橘の顔を思い描いた。
「こころの平静をえようとおもったら、わたしはわたし自身であることをやめなくてはいけない」
 義明は少し、話題の矛先を変えてきた
「己であることをやめてしまったら、ひとはどうなりますか。生きてゆけますか」
「生命活動は続く。しかしそれを生きていると呼ぶべきかどうか」
「狂えるものなら狂ってしまいたい。そうおもうこともあります」
「己自身で在り続けることは辛い。それは誰もがそうだ」
「あなたも?」
「人は誰しも己と言う枠の中でものを考える。越えたと思っても、実はそこはまだ、己の範疇なのだ。それを私はひどく息苦しいと感じている」
「わたしの精神……魂はえいえんにとらわれつづける」
「そうだ……」
 答えながら国領は名のある老僧と話している気分になって来た。
 この問答は、まるで国領自身のことを問うているかのようだ。
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「照弘君、少し外していて貰えるかな」
「……わかりました」
 兄がしぶしぶ部屋を出ていくと、国領はふう、とため息を吐いた。
「驚くべきことだ」
 どうやら、思念波のことを言っているようだ。
「普通は鍛錬を積みに積んで手にするもの。しかも皆が操れるようになるというものでもない」
 少しだけ羨望の混じった眼差しで、国領は直江を見つめる。
「幾つで出来るように?」
「ずっと前から。やりかたをおもいだせばいいだけでした」
「"ずっと前"というのは生まれた時か。それとも、前世の記憶があるとでもいうのか」
「国領さん。わたしは……」
 どう伝えるべきか、直江は言葉を選びながら話す。
 国領は信頼できる人間だと判断した直江は、いずれ自分が調伏活動を再開した際の協力者となるかもしれないと思い始めていた。
「わたしにとっては、いまの状態が正常なんです」
「覚醒したといいたいわけか」
「あなた風にいえば、このからだはすでに悪霊であるわたしのもので、タチバナヨシアキは二度ともどらない」
 そう言った後で、
(話しすぎたかもしれない)
 直江は少々、後悔した。




「お主、真実の名はなんという?」
 これにはさすがの義明も驚いたようで、床に落としていた視線をこちらへ向けた。
 国領が気を集中して相手に呼び掛けると、大抵の場合何らかの反応がある。それなのに何の反応も示さないということは、呼ばれた名が、自分の名ではない可能性がある。
 そのことを、国領は長年の経験から知っていた。
「どういう意味ですか」
「隠さずともよい。世の中にはいるのだ。己を己でないと思っている人間がな。大抵は悪霊にとり憑かれたか、唆されたかだが───
 悪霊という言葉に、義明は貌を歪めた。まるで自嘲の笑みにように。
 子供のする表情ではないな、と国領は思った。しかし視たところ悪霊に憑かれている様子はない。とすれば、何かしら悪い霊との接触があったのだろう。
「苦しくはないのか」
 まずは魂の回復への自覚を促すことだ。自覚がないことには何も進まない。
「以前のような心の安定を取り戻そうとは思わないのか」
 すると、予想外の出来事が起きた。
───兄にはきかれたくありません
 義明が、心の声で話しかけてきたのだ。




 国領と言う男性は、確かに精神を鍛えた者だけが持つ独特の研ぎ澄まされた気を放っていた。
 しかしそれ以上に、他者に対する愛情が、身体の外にまで滲み出ている。そんな人だった。人の助けとなることが、自分の存在意義だと信じている類の人間。直江はそう見てとった。
 目前に座らされて、直江は国領の顔を見る。
 彼の瞳は直江の瞳の奥を探っていたし、彼の気は直江の気の異常を捉えようと触手を伸ばしているのがわかった。
 けれど直江は、それをさせるつもりはない。
 眼を逸らすと、感情をシャットダウンし、気の乱れもないように整える。すると、
───ヨシアキ!
 驚いたことに国領は思念波で呼びかけてきた。
 意識的に思念を飛ばしているというよりは、相手に呼び掛ける強い心が思念波となって届いてくる、というところだろうか。
 普通の人間なら驚くところかもしれないが、直江は眉ひとつ動かさなかった
 まるで何も聞こえていない風を装って俯いていた。
 ところが。




 照弘自身、その人物とは二度ほどしか面識がなかった。
 しかも二度とも彼の方が橘の家にやってきた為、仙台の彼の家を訪ねるのはこれが初めてだ。
 冷房のよく効いたタクシーの車内で、照弘は隣に座る小さな弟を見た。
 無表情の奥には一体どんな感情が秘められているのか。見知らぬところへと向かう不安か。それともそんな普通の子供が抱くような感情は、微塵も浮かびはしないのだろうか。
 父が弟を仙台へ連れて行くと言い出した時、照弘はその役目は自分に任せて欲しいと言わずにはいられなかった。父とふたりきりであれば、弟は嫌なことでも逆らわずに言うことを聞くだろう。けれど自分とふたりだけなら、多少は甘えることが出来るかもしれない。そう思ったからだ。
 運転手が車を停めたその家は、家主の厳格な意思が構えに表れている、そんな家だった。
 見るからに心優しそうな奥さんに案内されて後を着いて行くと、畳敷きの部屋の真ん中、やや奥寄りの場所に、国領慶之助は坐していた。
 父が若い頃から世話になっているというその男性は、まずは照弘と視線を結んでひとつ頷くと、次に友人の子供に対する愛情と、その子の病を何とかしてやりたいという意欲と、何とかしてやれるという自信に溢れた瞳で弟を見た。
 たった数秒の、言葉も発さないその仕草だけで、
(この人なら弟を何とかしてくれるかもしれない)
 照弘は、そういう期待を感じずには居られなかった。



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