「義明、ちょっとここに立ってみなさい」
鏡の前に息子を立たせてその横に自分も並んでみると、
「やっぱり」
息子のほうがわずかに背が高いのがわかる。
橘家の子供たちは皆平均よりは背が高いけれど、小学生のうちから自分の背を越した子はいなかった。
「ウチで一番大きくなるかもしれませんねえ」
週末、大きめの服でも買いにいこうかしらと考えていると、
「お母さん」
「なんです」
声を掛けてきた息子は長い間躊躇った後で、
「ありがとうございます」
そう言った。
「……義明」
何に対してとは言わなかったけれど、言いたいことが伝わってきて、胸に熱いものが込み上げてきた。
「そういうことは、いつかお嫁さんを貰って、この家を出て行くときに言いなさい」
思わずにじみかけた涙を拭きながら、そう言った。
鏡の前に息子を立たせてその横に自分も並んでみると、
「やっぱり」
息子のほうがわずかに背が高いのがわかる。
橘家の子供たちは皆平均よりは背が高いけれど、小学生のうちから自分の背を越した子はいなかった。
「ウチで一番大きくなるかもしれませんねえ」
週末、大きめの服でも買いにいこうかしらと考えていると、
「お母さん」
「なんです」
声を掛けてきた息子は長い間躊躇った後で、
「ありがとうございます」
そう言った。
「……義明」
何に対してとは言わなかったけれど、言いたいことが伝わってきて、胸に熱いものが込み上げてきた。
「そういうことは、いつかお嫁さんを貰って、この家を出て行くときに言いなさい」
思わずにじみかけた涙を拭きながら、そう言った。
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試験さえ終わってくれれば、照弘も夏休みに入る。
スケジュール帳を山登りやら海水浴やら埋め尽くして、夏を満喫するつもりマンマンの照弘だったが、その前にひとつ、行かねばならないところがあった。
知り合いの寺に預けられている、義明のところだ。
訪ねるのは、初めてだった。
いかつい顔をした住職が、仏頂面で迎えてくれた。
「大人でも音をあげるというのによくやっているよ」
照弘たちの父親とは十年来の仲であるその人は、しみじみそう言った。
めったに人を好く言う人ではないから、余程感心しているのだろう。
「ちょうどいい。これを持っていってやってくれ」
手渡されたのは、今朝方に母が持ってきたという弁当だった。
毎日朝晩、欠かさず差し入れに来ているらしい。
本堂にいると言われて行ってみると、経でもあげているかと思ったのに何と雑巾がけをしていた。
「義明」
「……にいさん」
「どうだ、元気にしてるか」
声をかけると、弟は手を休めて正座で向き直ってくれた。
「辛くないか」
「……………」
問いかけても返事が返ってこないから、
「愚問だな」
仕方なく自分で答える。
話題を探して
「それも修行の一環か?」
雑巾がけのバケツを指し示すと、
「からだをうごかしていたほうが、らくなんです」
幼い声で敬語を紡ぐ。
「だからよるは」
無表情なのは、感情を表に出さないようにしているからだ。
「あたまがはれつしそうになります」
あまりの痛々しさに、照弘の心まで破裂しそうになった。
スケジュール帳を山登りやら海水浴やら埋め尽くして、夏を満喫するつもりマンマンの照弘だったが、その前にひとつ、行かねばならないところがあった。
知り合いの寺に預けられている、義明のところだ。
訪ねるのは、初めてだった。
いかつい顔をした住職が、仏頂面で迎えてくれた。
「大人でも音をあげるというのによくやっているよ」
照弘たちの父親とは十年来の仲であるその人は、しみじみそう言った。
めったに人を好く言う人ではないから、余程感心しているのだろう。
「ちょうどいい。これを持っていってやってくれ」
手渡されたのは、今朝方に母が持ってきたという弁当だった。
毎日朝晩、欠かさず差し入れに来ているらしい。
本堂にいると言われて行ってみると、経でもあげているかと思ったのに何と雑巾がけをしていた。
「義明」
「……にいさん」
「どうだ、元気にしてるか」
声をかけると、弟は手を休めて正座で向き直ってくれた。
「辛くないか」
「……………」
問いかけても返事が返ってこないから、
「愚問だな」
仕方なく自分で答える。
話題を探して
「それも修行の一環か?」
雑巾がけのバケツを指し示すと、
「からだをうごかしていたほうが、らくなんです」
幼い声で敬語を紡ぐ。
「だからよるは」
無表情なのは、感情を表に出さないようにしているからだ。
「あたまがはれつしそうになります」
あまりの痛々しさに、照弘の心まで破裂しそうになった。
「あちゅいでしゅね……」
「そうねえ、もう夏ですものねえ」
外から聞こえてくる蝉の鳴き声が更に暑さを掻き立てる。
「お夕飯は何にしましょうかねえ」
「"なしゅのおひたし"がいいでしゅ」
「………ハンバーグとかオムライスでもいいのよ?」
「なしゅにはからだをひやしゅこうかがありゅんでしゅ」
「……………」
(いったいどこでそんな事を覚えてくるのかしら)
そういえばこの間テレビでそんなことをやっていた気もするけれど。
我が子の行く末をほんのり気に病みつつ、頭の中の買い物リストに"茄子"の文字を入れた。
「そうねえ、もう夏ですものねえ」
外から聞こえてくる蝉の鳴き声が更に暑さを掻き立てる。
「お夕飯は何にしましょうかねえ」
「"なしゅのおひたし"がいいでしゅ」
「………ハンバーグとかオムライスでもいいのよ?」
「なしゅにはからだをひやしゅこうかがありゅんでしゅ」
「……………」
(いったいどこでそんな事を覚えてくるのかしら)
そういえばこの間テレビでそんなことをやっていた気もするけれど。
我が子の行く末をほんのり気に病みつつ、頭の中の買い物リストに"茄子"の文字を入れた。
冷房の効いた車内の空気は、カラッと乾いていて心地がよかった。
出発するなり、後部座席の高耶は運転席側に身を乗り出す。
「で、今日はどこの女んとこ?」
譲が目を丸くしていると
「こいつ、全国各地に女がいんだって」
と意地悪い笑みで高耶が言った。
「渡り歩いてるらしいぜ」
「高耶さん……。長秀なんかの言うことを真に受けちゃ駄目ですよ」
「ねーさんも言ってた」
「………晴家め」
そうは言いながら、ふたりともネタとして話している雰囲気だ。
「まあ、どこの女だっていーけどさ。刺されんぜ、いつか」
「いいですね。男冥利に尽きます」
「言ってろよ」
高耶は先程までの暗さはどこへやらで、けらけらと笑っている。
(すごいなあ……)
へそを曲げている時の高耶は譲でも扱いに困る事があるのに、直江は現れただけでその心を解してしまった。
従兄弟というから、やはりそこは血の繋がりのせいだろうか。
(俺も高耶の親戚だったらよかったのに)
車は、あっという間に駅周辺までやってくる。
「どこにつけます?」
「どこでもいい。そこらへんで」
高耶の言う通り、直江は駅前からは少し離れた場所で車を停めた。
「すぐ帰んの?」
「ええ。東京に戻らなければならないので」
「そっか」
「──譲さん」
車を降りた譲に、直江が真面目な顔で声を掛けてきた。
「周囲でおかしなことがあったら、いつでも連絡してください」
「……ありがとう」
譲が頷くと、
「平気だって。オレがついてる」
高耶が妙に自信たっぷりでそう言った。
それを聞いた譲の脳裏に、とある言葉が蘇る。
───そばにいてあげてください。
直江との間で交わされた、約束事。
この言葉を思い出す度、自分と同じように高耶を心配してくれる人がいるのだ思って嬉しくなる。
直江と顔を見合わせた譲が思わず笑い声を漏らすと、
「なに?なんだよ」
高耶が不満げな声をあげた。
出発するなり、後部座席の高耶は運転席側に身を乗り出す。
「で、今日はどこの女んとこ?」
譲が目を丸くしていると
「こいつ、全国各地に女がいんだって」
と意地悪い笑みで高耶が言った。
「渡り歩いてるらしいぜ」
「高耶さん……。長秀なんかの言うことを真に受けちゃ駄目ですよ」
「ねーさんも言ってた」
「………晴家め」
そうは言いながら、ふたりともネタとして話している雰囲気だ。
「まあ、どこの女だっていーけどさ。刺されんぜ、いつか」
「いいですね。男冥利に尽きます」
「言ってろよ」
高耶は先程までの暗さはどこへやらで、けらけらと笑っている。
(すごいなあ……)
へそを曲げている時の高耶は譲でも扱いに困る事があるのに、直江は現れただけでその心を解してしまった。
従兄弟というから、やはりそこは血の繋がりのせいだろうか。
(俺も高耶の親戚だったらよかったのに)
車は、あっという間に駅周辺までやってくる。
「どこにつけます?」
「どこでもいい。そこらへんで」
高耶の言う通り、直江は駅前からは少し離れた場所で車を停めた。
「すぐ帰んの?」
「ええ。東京に戻らなければならないので」
「そっか」
「──譲さん」
車を降りた譲に、直江が真面目な顔で声を掛けてきた。
「周囲でおかしなことがあったら、いつでも連絡してください」
「……ありがとう」
譲が頷くと、
「平気だって。オレがついてる」
高耶が妙に自信たっぷりでそう言った。
それを聞いた譲の脳裏に、とある言葉が蘇る。
───そばにいてあげてください。
直江との間で交わされた、約束事。
この言葉を思い出す度、自分と同じように高耶を心配してくれる人がいるのだ思って嬉しくなる。
直江と顔を見合わせた譲が思わず笑い声を漏らすと、
「なに?なんだよ」
高耶が不満げな声をあげた。
天気予報通り、雨は下校時刻までにはすっかり止んでいた。
けれど空気中に残った水分が、まる霧雨のように肌をジットリと湿らせる。
ふたりが並んで校門を出て少し歩いたところで、ふと高耶の足が止まった。
「ほらな」
得意気な声で言った高耶の視線の先には、譲にも見覚えのある乗用車が停まっている。
その傍らに立っていた人物がこちらに気付いて、声を掛けてきた。
「こんにちは」
「直江さん……」
直江は掛けていたサングラスを外すと、眩しそうに目を細める。
「駅まで送れよ」
高耶は、直江がやって来た事情も何も聞かないうちからそう言った。
けれど直江も、
「いいですよ」
それが当たり前のように頷いている。
「譲さんも、どうぞ」
高耶がさっさと車に乗り込んでしまうと、直江は譲のためにドアを開けて促してくれた。
「けど、高耶に用事があったんじゃ……」
「いえ、いいんです」
「………」
譲が納得のいかない顔でいると、
「昨日の晩」
直江は声をひそめた。
「呼ばれた気がしたんです」
「……高耶に?」
「ええ」
直江はその顔に苦笑を浮かべる。
「本人に言ったところで、否定されるだけでしょうけど」
けれど空気中に残った水分が、まる霧雨のように肌をジットリと湿らせる。
ふたりが並んで校門を出て少し歩いたところで、ふと高耶の足が止まった。
「ほらな」
得意気な声で言った高耶の視線の先には、譲にも見覚えのある乗用車が停まっている。
その傍らに立っていた人物がこちらに気付いて、声を掛けてきた。
「こんにちは」
「直江さん……」
直江は掛けていたサングラスを外すと、眩しそうに目を細める。
「駅まで送れよ」
高耶は、直江がやって来た事情も何も聞かないうちからそう言った。
けれど直江も、
「いいですよ」
それが当たり前のように頷いている。
「譲さんも、どうぞ」
高耶がさっさと車に乗り込んでしまうと、直江は譲のためにドアを開けて促してくれた。
「けど、高耶に用事があったんじゃ……」
「いえ、いいんです」
「………」
譲が納得のいかない顔でいると、
「昨日の晩」
直江は声をひそめた。
「呼ばれた気がしたんです」
「……高耶に?」
「ええ」
直江はその顔に苦笑を浮かべる。
「本人に言ったところで、否定されるだけでしょうけど」
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