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 高耶には電話で、日付が変わる前には帰る宣言をしてしまったというのに、もう25時を回っている。
(酒臭いだろうな……)
 直江は自宅の扉の前に立って、入るのを躊躇していた。
 ただでさえ、高耶はアルコールの匂いに敏感なのに。
(気分を逆撫でするだろうな)
 時間が遅いからチャイムは鳴らさずに、覚悟を決めて部屋へと入った。
 いっそのこと眠っていてくれれば、と思ったのだが、
「……ただいま戻りました」
「おかえり」
 高耶は、キッチンのテーブルに頬杖をついて座っていた。
「すみません、遅くなってしまって」
「いいよ、別に」
 表情には、別段変わった様子は見受けられない。そのことが逆に、直江の不安感を煽った。
「疲れてんだろ。座ったら」
 ええ、と応えながら、直江は上着を脱ぐ。
「夕飯、何食べたんですか?」
「カップラーメン」
 直江はう、となった。
 自分は、兄の奢りで豪華ふぐ三昧だったのに………。
「い、今は何をしてたんです?」
 見まわしてみれば、テレビもついていないし周囲に読みかけの漫画も無い。
「ぼーっとしてた」
 高耶は本当にぼーっとした表情で立ち上がると、冷蔵庫を開けて飲み物を取り出す。
「昔よく、親父が酔っ払って帰ってくるのを台所でお袋が待っててさ。その後ろ姿見ながら、今日は親父の機嫌が良いといいなとか、考えてたなーって」
 高耶はふう、とため息をつくと、オレンジジュースをごくごくと飲んだ。
(………これは、かなりまずい)
 高耶は、怒りを通り越して、気が滅入り始めているようだ。
「高耶さん……」
 とりあえずはお詫びの意味を込めて、その消沈した身体を腕の中に収めたいと近づいた直江を、高耶はそっと押しのけた。
「風呂が先。知らねー香水の匂いなんて、嗅ぎたくないからな」
 咄嗟に、言葉が出なかった。
(ああ、あらぬことまで疑われている……)
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「えっ!私もですか」
 打ち合わせを終えて事務所へ出勤すると、すでに出勤していた兄に、PD社の社長との会食があるから今夜は空けておけと言われてしまった。
 予定があるから残業は出来ませんよ、と言う暇さえなかった。
「私が同席する必要がありますか」
「今回の案件はお前が全て取り仕切っているんだろう?だったら、必要もへったくれもない」
「しかし───
「新たに三店舗だって?あいつも手広くやるなあ」
 兄は大学の後輩の有能さに、感心した声を出した。
 が、直江の方はそれどころではない。
 社長とは19時に待ち合わせだそうだから、どんなに早くとも店を出るのは22時頃。家に着くのは23時。
 高耶はきっと、20時にはマンションに到着するだろう。
 ………けれど、先方に直江が行くと伝わってしまっている以上、行かない訳にもいかない。
 橘不動産東京事務所にとって、PD社はそれほど重要な顧客だった。
(藪蛇だったか……)
 心の内で自分を責めてみても、もう、後の祭りだ。




 眼を覚ました直江は、もうすぐ鳴り始めるであろう目覚まし時計のスイッチをばしっと切った。
 おもむろに起き上がると、そのまま浴室へと直行する。
 服を脱ぎ、熱いシャワーを頭から浴びれば、寝起きの頭も少しずつクリアになっていく。
 今日一日の予定を、頭の中で組み立て始めた。
 シャワーを浴び終えたら服を着、コーヒーを入れ、朝刊に眼を通し、家を出て車へと乗り込む。
 向かう先は、朝一でアポを取ってある顧客の所。そこでの打ち合わせが終わったら、事務所へと出勤する。
 そういえば今日は、兄が東京へとやってくるのだった。
 と言うことは、いつもの流れで夕飯に付き合わされてしまうかもしれない。
(………それは困る)
 そうだ。これから打ち合わせをするPD社の社長と兄は古くからの友人だから、朝の内に社長へ兄が東京へやってくることを伝えてしまえば、きっと兄を夕飯に誘ってくれるだろう。
 じゃあ自分は、出勤してすぐに今日は用があるからと定時で上がる旨を兄に伝えてしまおう。
 その時は駄目だと言うかもしれないが、社長からの誘いがあれば「今日は許してやる」とか言い出すに違いない。
 何せ今日は、金曜日。
 高耶が東京へとやってくる日だ。
 日曜の夕方まで、たった二日弱しか一緒にいられない。
 貴重なその時間を、兄とはいえ邪魔して欲しくはないのだ。
 完璧な計画にほくそ笑むと、直江はシャワーの湯を止めた。




「高耶さん。そろそろ着きますよ」
 助手席ですっかり寝込んでいた高耶は、目を擦りながら身体を起こした。
「あ……コンビニ行きたい。美弥に土産買って帰んねーと……」
 という高耶の一言で、車を最寄のコンビニへと向けることとなった。
「こないださ、美弥のやつ、何て言ったと思う?」
「何ですか」
「早く夏休みが来ないかな、だって。まだあと一年あるっつーの」
 高耶は楽しげに笑った。
「よっぽど、楽しい夏休みを過ごしたんでしょうね」
「……おまえらのおかげもあるだろ」
 そういえば、この夏は海やら山やら祭りやら、散々連れまわされてしまった気がする。
「ありがとうな、ほんと」
「……らしくないですね」
 殊勝な顔をしている高耶をからかうと、
「オレも、たまには"まとも"なことを言うんだよ」
 笑う高耶に、直江も微笑み返す。
 そんなタイミングで、車はちょうど、コンビニへと到着した。
 9月もそろそろ半ばで、夜の気温は日に日に下がっていっている。
 それでも車外に出ると、むっとした外気が肌に纏わりついた。
 店内に入ってすぐ、高耶はお菓子の売り場でどれがベストのお土産か、悩み始めてしまった。
 そんな高耶のそばを離れ、直江は水と眠気覚ましのガムを手に取った。
 高耶を送り届けたら、その後は実家までの長いドライブが待っているのだ。
 ちょっと暗い気持ちになりつつも、やっと美弥への土産を決めた高耶と、夜食を買うために店内を移動する。
「あ、コレうまそう」
 いつも焼きそばパンばかりの高耶が、ちょっと豪華な惣菜パンを手に取っている。
「でも、今月ピンチだかんなー」
「大丈夫ですよ。経費で落とせますから」
「……おまえのその経費ってさ、兄貴んとこの不動産屋?それとも上杉の?」
「今日は上杉でいけますね」
「……いつか、ケンシンに化けて出られそうだよな」
 高耶の言葉の言い回しに、直江は思わず笑ってしまった。
「そしたら、あなたが怒られてくださいね」
 会計を済ませて外に出ると、夏の終わりの湿った風が吹き抜けていく。
「高耶さん?」
 車へ向かおうをした直江は、着いてこない高耶に声をかけた。
 何かに気を取られて立ち止まっている。
 その視線の先には、地べたに座り込んでわいわいと騒いでいる若者たちがいた。
 決して、いやなものを見る眼ではない。懐かしいものを見る眼だ。
 高耶の足が、自然とそちらへ向かうのを、直江はしばらく後ろから眺めていた。
 声をかける高耶。若者たちのあからさまな拒絶。
 ひと悶着ありそうな雰囲気だ。
 そう感じた直江も後を追って歩き出すと、案の定、彼らのひとりが高耶に掴みかかる。
「……………」
 放って置いたって別段問題はないことはわかっていた。
 が、くだらない人間たちが高耶に触れるのは我慢ならない。
 腕を離すように言って、彼を汚れた手から開放すると、二度と彼に近寄らないよう、無作法な輩に無言で言い渡す。
 高耶が喋り始めれば、彼らは見るからに意気消沈し、やがてゴミ拾いまでして去っていった。
「……ったく」
「"まとも"なこと、言ってましたね」
「まーな」
 彼らの後ろ姿を見つめながら、高耶はぼやいた。
「居場所が欲しさにあーゆーことしてると、ますます居場所がなくなるんだよな」
「経験者は語る、ですか」
「……譲がいなかったら、オレもあいつらに敬語使われてたかもな」
 その想像は、あながち違ってもいないだろう。
 苦笑いになる直江を、ふと高耶が真顔で見つめてきた
「?」
────……」
 高耶が何かを言いかけたそのとき、コンビニの店員が話しかけてきて、話の続きを遮られてしまった。
 が、どうしても気になったから、車に乗り込んだ後で、
「さっき、何かいいかけたでしょう」
「ん?」
「何なんです」
 問いただしてみた。すると、
「おまえや千秋やねーさんといると、遅かれ早かれこうなってたのかなって思うんだよな」
 直江がエンジンをかけると、エアコンの通気口からひんやりとした風が吹き出てきて、高耶の前髪を揺らした。
「譲と会ってなくても、いずれはおまえたちとこうしてたんじゃないかって」
「……どうでしょうね」
 シートベルトを引っ張って、直江は言う。
「譲さんがいなければ、あなたが魔縁塚の一件に関わることもなかったでしょうし……。まだあなたとも、出会えていなかったかもしれませんね」
「……だとしても、きっといつか出会ってたと思う」
 高耶は確信に満ちた声で言った。
「運命って言うと、大げさかもしれないけど。そんな気がするんだ」
「……………」
 自分たちは、再び出会うことが運命付けられていたのだろうか。
 高耶がそう感じるのなら、そうなのかもしれない。
 だとしたら、この先に起こる出来事も、もうすでに運命付けられている?
「直江?」
 黙りこんでしまった直江の顔を、高耶が覗き込んでくる。
「……馬鹿みてーって、思ってるんだろ」
「まさか。思ってませんよ」
 微笑って、そう答えながら、直江は思う。
 未来が、すでに定められているというのなら。
(このひとが、傷つくようなものでないといい)
 自分はいい。どんな困難でも引き受けてみせよう。
 けれど、このひとの笑顔が二度と曇ることのないように。
 このひとが、心の平安と、真の幸福を手にすることを、願ってやまない。
(いや、願うだけでなく)
 自分が、運命の道筋をそちらの方へと向けてやらねばならない。
「もし、あなたと再び出会う運命になかったとしても」
 ステアリングを握りながら、前方へと視線をやった。
「私は、運命なんて捻じ曲げて見せましたよ」
「………直江」
 直江は高耶の視線を横顔に感じながら、ゆっくりと車を発進させた。




 いつも通り、啓ちゃんと登くんに呼び出されて、武志と雄治と俺といういつものメンバーでいつものコンビニ。
 別に、特別楽しいことがある訳でもない。夏休み中の流れのまま、なんとなく集まっているだけ。
 けど、家にいたって、あのクズみたいな男と、母親と、産まれたばかりの弟が一緒にいるのを眺めているだけなのだ。
 この仲間たちと一緒にいれば、少なくとも疎外感は感じない。
「そういや聞いた?健二の話」
「聞いた聞いた。まじイタいんだけど」
 周囲を遠巻きに通っていく大人たちのよそよそしい視線に、優越感を感じることだって出来る。うちらは、彼らとは違う人間なのだ。周囲に迎合し、媚び諂いながら生きたりはしない。好きなことを、好きなようにやる。気にいらないことは、気にいらないとちゃんと言う。
(………?)
 なのに、この胸に広がる自己嫌悪に似た感情は何なのだろう。
───で、ありえねーくらいのどや顔されちゃってさあ」
「ギャハハハハ!見たかったわー!」
 ぼけーっとしながら皆の話をなんとなく聞き流していたから、すぐそばに人が寄ってきたことにも全然気づかなかった。
「おい」
 俺のすぐ後ろから、男の声がした。
「……んぁ?何だよ」
 啓ちゃんが不機嫌な顔で、返事をする。
「それ、拾っとけよ」
 振り返ると、たぶん高校生くらいの、見るからに気の強そうなヤツが立っていた。
 顎で、うちらが捨てた吸殻を示している。
 手は、ジーンズのポケットに入れられたままだ。
 その態度に、全員がカチンと来た。
「……気になんなら、おめぇが拾えよ」
 地面に座り込んでいた登くんが立ち上がる。
 あーあ、と思った。
 啓ちゃんのほうが見た目は派手だけど、実は登くんのほうがキレやすい。
 そして一度キレてしまうと、手がつけられなくなってしまう。
「歳が上だからって、勝てると思うなよ」
 登くんが、ソイツの胸倉を掴みにかかる。
 ソイツのほうが背も高かったし、体格もよかったけれど、みんな登くんの強さを知ってるから、ニヤニヤしながら眺めていた。
 ところが、
「な、何すんだよ」
 突然現れたスーツの男が、掴みかかっている登くんの腕を横から掴んだ。
「離しなさい」
────ッ!」
 それは、聞いた誰もがぞっとするような声色だった。
 そして俺は、得体の知れない恐怖を感じていた。
 男の冷たい表情にも、男に庇われることがまるで当然だというようなソイツの態度にも。
 こいつらは、うちらには理解できない世界に生きている人間なのだろうと思った。
 それを察したのか、登くんも慌てて手を離す。
 ソイツは、やっぱりポケットに手を入れたまま、
「もう、充分楽しんだろ。いい時間だ。早くママんとこに帰んな」
 そう言った。
 すると啓ちゃんが、自嘲の笑みを浮かべて言う。
「ママなんて、顔も見たことねーよ」
 そうなのだ。啓ちゃんとこの母親は、啓ちゃんを産んですぐに蒸発してしまい、父親も数年前から家に寄り付かなくなっているせいで、バアちゃんとのふたり暮らしなのだ。
「ここにいる奴らはみんな、家なんてあって無いようなもんなんだよ」
 みんな、それを聞いて頷きこそしないけれど。俺たちは家庭環境の悪い子供という、一種の連帯感を味わうために、毎晩のようにここに集まっているのだ。
「じゃあ、お前らの家はどこだよ。ココか?こんな雨風も凌げない、ゴミだらけのココが、お前らにとっては唯一心安らげる場所だっていうのか。そんなんでいいのかよ」
 言葉に詰まる啓ちゃんを見て、ソイツは少しだけ語調を和らげた。
「くだらない大人になんて、なりたくないだろう」
 睨みつけている登くん、下を向く武志、居心地悪そうにしている雄治、俺、と視線をゆっくりと移していく。
「だったら、他人に煙たがられるような人間にはなるな」
 その言葉を聞いて、
(ああ、そうか)
 俺はやっと納得がいった。
 いつも感じていた奇妙な自己嫌悪。あれは自分が、うちらの親と同じように周りに無頓着な人間になってしまったような気がして、嫌だったんだ。
 俺は、そうはなりなくない。いつか息子が出来たら、ちゃんとそいつの気持ちをわかってやれる人間になりたい。
 そう考えると、少年の言うことはもっともだという気になってきた。
 さっき俺が捨てたコーヒー牛乳の紙パックが足元に転がっているのが眼に入って、思わず拾い上げる。
 登くんが、非難するような眼で俺を睨んできた。
「俺は、ウチの親みたいにはぜってーならない」
 俺が断言するように言うと、
「根性あんじゃん」
 ソイツがちょっとだけ、笑顔で言った。
 やがて啓ちゃんが自分の前に落ちていた煙草の吸殻を拾い出したから、みんな仕方なくといった感じでそれぞれゴミを拾うと、
「行こうぜ」
 手にしたものをゴミ箱へ捨てて、歩き出す。
 コンビニの敷地を出る前にもう一度ソイツの方を振り返ると、彼はまだ、じっとこちらを見つめていた。
「あそこに行こうぜ」
 昇くんの提案で、近所の公園へ行くことにしたけど、この雰囲気じゃきっとすぐに解散になるだろう。
(明日からはもう、夜出歩くのはやめようかな)
 俺がなんとなくそんな風に考えていると、
「思い出した」
 先頭を歩いていた啓ちゃんが、ふと声をあげた。
「あれ、仰木高耶だ!」
「オウギって深志の?」
「そう!三井さんと話してるの見たことあるわ!」
「うがッ!三井さんってあの三井さん!?」
 興奮し始める仲間たちを、俺は後ろから眺めていた。
 それが、何だと言うのだろう。
 あの彼は、……仰木というらしいが、彼は自分たちのような狭い世界では生きていなかった。
 もっと広くて大きい、何かを見つめている眼をしていた。
(いつか、俺も)
 空を見上げて、そこに散らばる微かな光に向かって誓う。
 いつかきっとここから出て、もっともっと広い世界を歩いてみせる、と。



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